
■ 我々ホモサピエンスは何故、他の人類を駆逐し、唯一の人類となったのか ハラリ教授から学ぼう
そして、いつか我々に取って変わるホモデウス、ポストヒューマンにつながる書

この2冊は、かなり掘り下げましたので、お時間があればお読みください。
●サピエンス全史-文明の構造と人類の幸福- 概要解説
著者ユヴァル・ノア・ハラリはイスラエル・ヘブライ大学歴史学教授です。かつて流行ったような人類の創成期の謎を遺構や
神話を元に解き明かそうとした類の結果として想像の域を出ない書物(神々の・・とか)とは一線を画します。もちろん人類が
登場した250万年前から数千年前くらいまでの話は想像の域を出ることはないのですが、「サピエンス全史」は可能な限り
学術的な検証を踏まえた記述となっています。また、この本を読み進めながら思ったことは「前評判とは全く違い、読み応え
があり、かなり手ごわい書物」です。
「我々、ホモサピエンスは神話や宗教という架空のものを信じる能力によって結集し、ネアンデルタール人など他の人類を滅
ぼして地球上唯一の人類となった。」まあそんな太古の話が面白く書かれているのだろうと思っていたのですが、実のところ
タイトル通り、我々ホモサピエンスの現代までに至る「全史」が書かれているのです。
そもそも、この本の存在は知っていましたが、じゃあ大枚4000円以上払って読もうかと思った切掛けは、コンピュータの
能力が人類を超えるという「シンギュラリティ」の話で著名な神戸大の松田卓也教授の講演を聞いた際、認知革命(7万年前)、
農業革命(1万2千年前)、産業革命(2百年前)からシンギュラリティ(2045年)に至る話の引き合いに出していたからです。
ハラリ教授はこの本の中で、度々レイ・カーツワイル博士のシンギュラリティに関する話に触れています。
我々人類、つまりホモサピエンスの過去から未来に至る進化は、「サピエンス全史」、「ホモ・デウス」の内容をたどって、
理解・想像ができ、未来に関する部分の科学的見地は、カーツワイル博士の「シンギュラリティは近い」「ポストヒューマン」
によって現実味を帯びてくる。という感じでしょうか。
●ホモ・デウス-テクノロジーとサイエンスの未來- 概要解説
ホモサピエンスが神話や宗教という虚構、つまり架空を信じて集団としての協力を可能とした認知革命、狩猟採集民からの農
耕民への脱却を生んだ農業革命、集団となることでヒエラルキーを生み、社会的・文化的な差別が発生。統一に向けた帝国主
義、貨幣経済、グローバル化、そして、科学革命、産業革命を経て発展する産業。その発展の中でホモサピエンスは飢餓や疾
病、戦争による大量死の時代を乗り越えつつあるようには一見、思えるが、我々のホモサピエンスの文明は本当に我々を幸福
にしたと言えるのか、否か。そもそもホモサピエンス、つまり我々にとっての幸福とは何か。
マンモスの復活や遺伝子操作を可能とする生物工学、サイボーグ化による長寿命、その先に来るかもしれない不死の時代を前
にして、機械上の脳の情報をアップロードすることによる不死を実現することを目指すギルガメシュプロジェクトによる人間
強化。つまり、非有機的人間工学による脳の再現が可能となる近未来でのコンピュータと人間の境目はどうなるのか。フラン
ケンシュタインの怖ろしい物語は単なる予言だったのか、ホモサピエンスを超える存在などは生まれはしないという警告だっ
たのか。脳とAIを融合させた超ホモサピエンスとして我々は、これからどのように進化し、どこへ向かうのか。
というようなことが、かなり回りくどく、この手の話が好きな私でも理解が難しいレベルで書かれています。実は「ホモ・デ
ウス」は日本での発刊時に書店店頭でペラペラめくっていると、おそらく私には理解できない難しい内容と思い、購入せず、
図書館で借りて、メモを取ったのですが、それをWORD化する気力が、長すぎて最後まで続かない状態でした。
最近(2025年)になって、武力による帝国主義はまだ続き、戦争が決してなくならない=つまり、大量死の時代は、この本の
記述とは異なりまだ続くのだと思い、途中までしかないメモを読み直した次第です。
知見を広める本ではありますが、詳細かつ長いので、決してお勧め本ではありません。
もう少し、この2冊の中身を知りたければ、以下をお読みください。
ちなみに、ハラリ教授は、この2冊の後、「NEXUS 情報の人類史」「21Lessons 21世紀の人類のための21の
思考」を上筆していますが、残念ながらまだ読んでおりません。
●サピエンス全史-文明の構造と人類の幸福- もうちょっと概要解説
では内容のほんの一部をかいつまんでみましょう。人類の登場は250万年前。最後発の人類である我々ホモサピエンスの歴
史はたった20万年程度に過ぎない。そして3万年前にネアンデルタール人が滅亡、1万3千年前にはホモフローレシエンシ
スが絶滅し、ホモサピエンスが唯一の人類種となった。そして、7万年前から3万年前の間にホモサピエンスに認知革命が起
こり、船やランプ、縫い針の発明などの他、伝説や神、宗教という概念もこの頃に初めて現れている。ホモサピエンスは周辺
世界や自らの社会内の大量の情報を伝える能力、部族の精霊など現実には存在しないものを信じ、他の人々に伝える能力、そ
して大人数の見知らぬ者同士がまとまりを持ち複雑な行動をすることを可能とし、4万5千年前にオーストラリア大陸、3万
5千年前に日本、そして、地球温暖化で氷が解けた1万2千年前にアメリカ大陸へと広がり続け、ネアンデルタール人など、
他の人類種を滅ぼしてしまった。・・・まあ、ここまではこの本の前評判から想像できる内容でした。
しかし、何せ全史なもので、話はより複雑で多岐にわたっています。ご存知の通り、今では地球上の人類は1つの種、我々ホ
モサピエンスしかいませんが、必ずしもホモサピエンスはそれ以前の人類の進化系ではなく、最も遅く現れたホモサピエンス
と他の人類は交雑して暮らしていたが、結局は他の人類種は淘汰され絶滅した。交雑の名残として、現代のホモサピエンスに
はネアンデルタール人のDNAが7%程度含まれているそうです。へえ~そうなんだ。
狩猟採集民の頃のホモサピエンスは、、食糧をもとめて活動範囲を広げながら、他の人類種を滅ぼしただけでなく、大型動物
をも瞬く間に滅ぼしてしまいました。認知革命の頃、地球には体重が50Kg以上の大型地上哺乳類が200属程度はいたの
に農業革命の頃には100属にまで減ってしまったそうです。
おそらくは突然変異が原因で起きた認知革命。コミュニケーションにより集団を動かすのは150人が限界とされているらし
いですが、それ以上の顔も知らない他人を結集させる為に、神話や宗教という架空のものを信じ、行動のよりどころにするこ
とが出来るようになったのです。その後、時がたって生み出された国家や有限責任会社、貨幣、保険なども同じくホモサピエ
ンスの認知革命が生み出した架空の存在です。
狩猟採集民の時代、食物は一般的に不足しており、食べ物を探して歩きまわる生活をしていました。甘いイチジクの木の実な
どカロリーの高い食物を見つけたらその場で食べられるだけ食べるという本能は現代の私たちにも、つい甘いケーキなどを見
ると食べたくなる大食い遺伝子として刻み込まれています。しかし、現代人のように週40時間も50時間も働くことはなか
ったし、掃除や洗濯に手間がかかることもありません。
1万2000年前頃、農業革命が起き、繁栄をもたらしたと言われていますが、農業は大集団を維持するのには良かったです
が、史上最大の詐欺だったとも言われます。ホモサピエンスが世界中に広がった小麦や稲、イモを栽培化したのではなく、逆
にホモサピエンスがそれらに家畜化され、小麦の世話に来る日も来る日も勤しみ、家畜由来の感染症にかかり、また農耕向け
の体ではなかったためヘルニアや関節炎にも。農業は病気や苦難、そして搾取をもたらしました。ホモサピエンスの協力のネ
ットワークが強大となった王朝や帝国の時代には平等主義に基づくことなど決してありませんでした。奴隷。白人と黒人や先
住民。男性と女性。ヒンズー教のカースト。そんなヒエラルキーがつい最近まであったのです。
それ以前の狩猟採集生活の方が生活に余裕があり、ずっと幸せだったのかもしれません。より楽な暮らしを求めたら、大きな
苦難を背負い込んでしまったということです。
サピエンス全史は、王国の時代、宗教による支配、500年前の科学革命、資本主義、コロンブスに代表される大航海時代以
降、コルテスや東インド会社などによる他民族の征服、搾取・殺戮。200年前の産業革命、帝国主義、社会主義、現代の平
和、そして、サイボーグ化による人類の未来、新たな生命体など、未来についてまで語ってくれています。
読み応えありすぎです。
大方こんな内容ですが、更にもう少し詳しく知りたい方は、以下の要約詳細版もお読みください。
●サピエンス全史-文明の構造と人類の幸福- もう少し詳しく(要約詳細版)
ホモサピエンスは他の種の人類を絶滅させただけでなく、行く先々で多くの動植物をも絶滅させてきました。またコロンブス
に代表される大航海時代以降には、他民族の搾取・殺戮を繰り返してきたのです。特に産業革命後、国ではなく、信用経済に
よる資金を集めた東インド会社などの民間企業が自前の軍隊を持ち、世界のこと、つまり自分達の支配地域以外のことを知ら
ない人々を征服し、搾取してきたのです。
普遍的で宣教を行う宗教が現れたのは紀元前1000年紀。最初の一神教として知られているのは、紀元前1350年にエジ
プトのアテン崇拝は他の神々の崇拝を阻止しようとしましたが、ファラオの死後、色々な神を信じる考え方が復活しました。
また、イエスが始めたユダヤ教の小さな宗派であったキリスト教は西暦500年頃にはローマ帝国の国教となり、せっせと宣
教活動が行われ、今では誰もが知るところとなっています。
一神教とは縁を切った人間至上主義として有名なものとしてナチスがあります。今日では科学的に誤りとされている白人やア
ーリア人がすぐれた人種だという考えは1933年の科学知識からすれば常軌を逸しているとまでは言えなかったのです。ナ
チスの最大の野望は人類を退化から守り斬新的進化を促すことであり、退化したホモサピエンスは隔離され殲滅しなければな
らないとナチス主張したのです。ナチスは1945年に滅びましたが、白人至上主義そのものはアメリカでは1960年代ま
で、オーストラリアでも1973年まで続きました。人類の歴史からすれば、つい最近のことなのです。
この500年に人類は驚くべき科学的発展をすると同時に、西暦1500年には5億人程度だったホモサピエンスは70億人
に達しました。
1492年コロンブスによる最初のアメリカへの旅から1519年コルテスのメキシコ上陸の間に、スペイン人はカリブ海の
島々を征服し、圧政を敷き、先住民を奴隷として働かせました。アステカ帝国はコルテスの率いたたった550人のスペイン
人に征服されてしまったのです。10年後、ピサロはわずか168人でインカ帝国を征服しました。アステカもインカも無知
で支配地域以外への興味を全く持たず、自国のみが唯一の帝国であり、世界の全てだと信じていたため、庭先で起きているこ
とを全く知らないため、科学の進んだヨーロッパ勢力が侵略してくることなど予想もしなかったのです。
同じように、オスマン帝国、サファヴィー帝国、ムガル帝国、中国などアジアの大帝国はヨーロッパ人が発見したあらたな土
地には関心を示すことはありませんでした。
しかし、ヨーロッパ人は世界への興味を持っていました。1768年ジェイムズ・クック船長は金星の位置を測定することで
太陽と地球の距離を割り出すという使命を持ってイングランドを出発しタヒチへ向かいました。この船にはいくつもの科学分
野の科学者が乗船し、オーストラリアやニュージーランドの膨大なデータを持ち帰りましたが、クックはオーストラリアなど
自分が発見した陸地や島々をイギリス領として宣言し、それは新たな植民地開発と先住民の文化の根絶と殺戮の出発点となっ
たのです。
過去500年間に人々は「進歩」という考え方により、今より良くなる将来に信頼を寄せることが出来るようになりました。
この信頼が「信用(クレジット)」という考え方を生み出したのです。この信用に基づく経済活動で私たちは将来のお金で現
在を築くことができるようになりました。
グローバルなパイは拡大するに違いないという考え方は、後にアダムスミスの国富論(1776年)を生み、利益を生産に再
投資することが経済の成長につながるという考えを普及させ、資本主義を生み出しました。資本主義は今や経済学説を超える
存在となり、一つの倫理体系となっています。
国王や銀行家はコロンブスのような探検隊への投資を厭いませんでしたが、こうした探検隊は必ずしも成功するとは言えず、
不確実なものでした。そこで、大勢の投資家から資金を集め、自己資本のほんの一部を危険にさらすだけのリスクで、うまく
いけば大金がころがり込むという有限責任の株式会社という考え方が生まれたのです。この制度はどの王国、帝国よりも効率
的に探検や征服の資金を調達しました。
1568年ヨーロッパ一の強国であり世界各地に植民地を持つ帝国であったスペインの片隅にある属領であったオランダはス
ペインに反乱を起こしましたが、投資先としての信用を大事にしたオランダは豊富な資金を集め、結果、スペインに取って代
わりました。「信用(クレジット)」という考え方が、「王国や帝国の権威」に勝ったのです。しかも、それはオランダ政府
が行ったことではなく、たとえば1602年設立のオランダ東インド会社(VOC)のような株式会社が行ったのです。
VOCはアジアと貿易を行い、武力によりインドネシアを征服し、その支配は200年近く続いたのです。
その間、オランダ西インド会社(WIC)はアメリカ大陸に進出しましたが、1664年にはイギリスに植民地を奪われまし
た。アメリカに大英帝国の植民地を建設したのも同じく株式会社です。そしてイギリス東インド会社は武力によりインドを植
民地化したのです。
インドネシアの支配がオランダ政府に移ったのは1800年。インドの支配がイギリス政府に移ったのは1858年になって
からのことです。
16~19世紀に1千万人のアフリカ人が奴隷としてアメリカに連れて来られて惨めな暮らしを強いられましたが、それは営
利事業としてヨーロッパ人が莫大な利益を甘受するために行われました。資本主義はその強欲さから膨大な人間を死に至らし
めました。19世紀になっても資本主義の倫理観は改善せず、ベルギーによって搾取されたコンゴのプランテーションではノ
ルマに達しないものは腕を切り落とされるという罰を受けたそうです。1885年から1908年に600万人のコンゴ人の
命が失われています。
2014年現在の経済のパイは1500年前よりはるかに大きいですが、アフリカの農民やインドネシアの労働者が身を粉に
して働いて手にする食料は500年前の祖先より少ない状態です。近代経済の成長も大がかりな詐偽といえるようです。
熱を動きに変換するというエネルギーの大躍進は9世紀の中国での火薬の発明の後に起こりました。中国の錬金術師による火
薬の発明からコンスタンティノープルの城壁を破壊する大砲の発明には600年、さらには熱を使って動く機械を発明するに
は300年を要しました。1700年頃のイギリスの炭鉱で蒸気機関は水汲みポンプとして使われだして、さらに蒸気機関は
織物工場で使われるようになり、1825年には炭鉱用の蒸気機関車が生まれたのを皮切りに、蒸気機関がイギリス中に広が
りました。これが産業革命の始まりです。
産業革命により人類の生産性は爆発的に向上し、産業革命は農業への機械の導入による生産性向上という第2次農業革命をも
もたらしました。
現代の我々から見れば、科学革命や産業革命、資本主義は一見、我々ホモサピエンスの暮らしを豊かにしたように思えますが、
それは被支配民となった人々や、産業化され自由や命を奪われた動物の犠牲のもとに成り立っています。では我々は平和な暮
らしを手に入れたといえるのでしょうか。現代でも暴力や戦争・テロによる死者は多いですが、交通事故や自殺による死者の
方が遥かに多いのが事実です。ヨーロッパの諸帝国の崩壊・撤退により、国家間の武力紛争はかつてないほど減少し、皆無で
はないものの征服・併合を目的とした多国への侵略は限定的になり、人類の弱肉強食の掟は覆されたのです。これほどまでに
平和が広まった時代はなかったとは言えるでしょう。グローバル化によりどの国も単独では経済が成り立たず、国として成立
しなくなったからです。(注、ロシアのウクライナ進行の前に書かれています。)
生命の法則は変わりつつあります。遺伝子工学を使った生物(動物・植物・菌類)の操作、サイボーグ工学、自己増殖するコ
ンピューターウイルスさえ生物と言えるのかもしれません。ホモサピエンスが新たな道に踏み出しつつあるのは確かです。
以上、「サピエンス全史」の要約です。これでもかなり端折っていますが。
続いて、
●ホモ・デウス-テクノロジーとサイエンスの未來- もう少し詳しく(要約詳細版)
20世紀の中国でも、中世のインドでも、古代のエジプトでも、人々は何千年も不変であったの三つの問題、飢饉と疫病と戦
争のことで頭がいっぱいであり、この3つの問題は常に取り組むべきリストの上位を占める最優先の課題であった。人間はあ
りとあらゆる神や天使や聖人に祈りを捧げ、無数の道具や組織や社会制度を考案してきた。にもかかわらず、飢餓や感染症、
暴力のせいで厖大な数の人々が命を落とし続けた。
しかし今日、私たちは飢饉と疫病と戦争を首尾よく抑え込むことが出来ている。抑え込んでいるなどと言うと、1日2ドルに
満たないお金で食いつないでいる何十億もの人々、今もアフリカで猛威を振るうエイズ、 シリアとイラクで続く戦争がある
ではないか、はなはだ考えが甘い、無神経と感じる人がいるかもしれない。しかし、今日では食べ物が足りなくて死ぬ人の人
数を、食べ過ぎで死ぬ人の人数が上回っている。
飢饉も疫病も戦争も今や運命として甘んじて受け入れる類のものではなくなり、誰かがどこかでしくじったのであり、反省し、
対策を立てれば、次回には対処可能なことになっている
そして、21世紀に人間が考えるのは、不死と至福と神性を獲得することだろう。2012年にグーグルエンジニアリング部
門のディレクターとなったカーツワイル博士は2013年の「死を解決する」ことを使命とする子会社キャリコ(老化や神経
変性疾患やガンなどの老化に伴う病気にフォーカスした施設)を設立している。
だが、まずは
飢饉と疫病と戦争について振り返ってみよう。
飢餓について
飢饉は、何千年も前から人類の最悪の敵であり。最近まで、ほとんどの人が生物学的貧困線ぎりぎりのところで暮らしてきた。
この線を下回ると栄養不良になり、飢え死にする。わずかなミスや不運がいとも簡単に人々への死刑宣告となった。豪雨で畑
の小麦がやられたり、泥棒にヤギの群れを連れ去られたりすれば、家族もろとも餓死する。集団レベルで災難に見舞われたり、
愚かな振る舞いがなされると、大規模な飢饉が起こった。古代のエジプトや中世のインドでは深刻な旱魃に襲われると、人口
の5%~1割が亡くなることも珍しくなかった。統治機関も脆弱で有効な手を打てず、蓄えが尽きても、十分な食糧を輸入で
きなかったので、どの歴史書でも、飢えて狂乱した民衆の惨状に出くわす。何日も食べられず、次に食物が得られる見当もつ
かないとき、人はどう感じるだろう? この拷問のような苦しみを味わったことのある人は、今日ではほとんどいない。だが、
私たちの祖先にとって、それはお馴染みの経験だった。
1662~1664年 フランス全人口の15%、280万人が飢え死にした。
1695~1698年 エストニアの人口の20%が飢え死にした。
1696~1697年 フィンランドの人口の1/4から1/3が飢え死にした。
1695~1698年 スコットランドの一部地域で20%の人々は飢え死にした。
この時代、次々と飢饉がヨーロッパを襲ったのだ。
しかし2010年になると、飢餓と栄養不良で亡くなった人は100万人なのに対して、肥満で亡くなった人は300万人
以上いるのだ。
疫病について
飢餓に続く第二の大敵は疫病と感染症である。商人や役人や巡礼者の途絶えることのない賑やかな町は、人類の文明の基盤で
ると同時に、病原体にとって理想の温床だった。古代アテネや中世のフィレンツェの住民は、翌週、病に倒れて死ぬかもし
れないことや、感染症の突発で家族全滅の憂き目に遭いかねないことを承知して暮らしていた。人類は近代になるまで、病気
を汚い空気や悪霊や怒れる神のせいにし、目には見えないバクテリアやウイルスが身の回りに存在するとは夢にも思わなかっ
た。天使や妖精の存在はたやすく信じるのに、ちっぽけなノミや、たった一滴の水の中に、恐ろしい命の略奪者の大軍団、菌
やウイルスが潜んでいるとは想像できなかった。
1330年代、黒死病で7500万人~2億人が死亡、ユーラシア大陸の人口の1/4が死亡し、イングランドでは人口の40
%が死亡し、370万人の人口が220万人まで減った。またフィレンツェでは10万人の人口が5万人に減ってしまった。
人々は感染症に対しては、なすすべがなかったのである。
メキシコでは1520年3月にスペイン艦隊が上陸すると天然痘が恐ろしい速さで広がり、2200万人だった人口が12月
には1400万人に減り、その後インフルエンザ、はしかも持ち込まれ、1580年には人口が200万人を割ってしまった。
今日ほどグローバルな活動が行われていなかった時代でも感染症は恐るべき速さで広まる。
1778年ジェイムズ・クック船長はハワイに上陸したが、それによりインフルエンザと結核と梅毒が持ち込まれ、1853
年には、ハワイの人口は7万人に減少していた。
1918年、フランス北部の塹壕で戦う兵士にスペイン風邪(インフルエンザ)が蔓延し、何千人もの兵士が死亡した。その
後、たった数か月で地球の人口の1/3にあたる5億人が発症し、インドでは人口の5%、1500万人が死亡、日本では人
口の40%である2300万人が感染し、そのうち45~48万人が死亡した。第一次世界大戦の死者、行方不明者、負傷者
は4000万人であったが、スペイン風邪によって5000万人~1億人が死亡している。
ところが、過去数十年間に、感染症の発生は劇的に減った。とくに、世界の小児死亡率は史上最低を記録し、成人するまでに
亡くなる子供の割合は5%以下、先進国では1%以下となった。この奇跡は20世紀の医療が空前の成果をあげたおかげであり、
私たちは予防接種や抗生物質、衛生状態の向上、優れた医療インフラの恩恵に浴している。
1967年には、天然痘により1500万人が感染し、200万人が死亡したが、2014年には、天然痘の感染も死亡もつ
いに0となった。
今日では2002~2003年SARS(重症急性呼吸器症候群)、2005年鳥インフルエンザ、2009~2010年豚
インフルエンザと今でも感染症は次々と発生しているが、その都度収束しており、2014~2015年エボラ出血熱では3
万人が感染し、1.1万人が死亡しただけである。
1990年代からエイズで3000万人が死亡しているが、2年で正体が突き止められ、感染の広がり方が理解され10年で
新薬が開発された。今や新たな感染症は避けようのない自然災害などではなく、人災と考えられるようになった。
そのため、新たなエボラ出血熱が発生したり、未知のインフルエンザ株が現れたたりして地球を席捲し、何百万人もの人命を
奪うことがないとは言い切れないが、私たちは将来そういう事態を、避けようのない自然災害と見なすことはなく、弁解の余
地のない人災として担当者の責任を厳しく問う。
2014年、エボラ出血熱の大流行した際には、対応が不十分であるとWHOを批判し、WHOのアフリカ地域事務所内の腐
敗と非効率のせいにした。また国際社会そのものにも、十分迅速かつ効率的に対応しなかったとして非難が浴びせられた。
このような批判は、疫病を防ぐ知識と手段があるのに、感染症が手に負えなくなるのは、神の怒りなどではなく、人間が無能
なせいだと考えることを前提としている。
同じく、医師がエイズの仕組みを理解してから何年もたつのに、アフリカで何百万もの人がエイズに感染して命を落とし続け
ているのは、冷酷な運命などでなく、誰かの失敗の結果とみなされている。
今日、エイズやエボラ出血熱のような自然災害との戦いにおいて、形勢は人類に有利になりつつある。しかし、バイオテクノ
ロジーは私たちがバクテリアやウイルスを打ち負かすことを可能にはするが、同時に軍やテロリストが世界を破滅させかねな
い恐ろしい疾病や病原体を作ることも可能にすることで人類を危険にさらしてしまい、人間自体を前例のない脅威に変えた。
自然界の感染症の前に人類がなすすべもなく立ち尽くした時代は過ぎ去ったが、その頃のほうがましだったと懐かしむ日がい
つか来るのかもしれない。
戦争について
第三の朗報は、戦争もなくなりつつあること。歴史を通してほとんどの人間にとって、戦争は起こって当然のものであり、
平和は一時的であった。国際関係は弱肉強食の「ジャングルの法則」が支配しており、たとえ二つの国家が平和に共存してい
ても、戦争はつねに一つの選択肢として残っていた。
ところが20世紀後半に、このジャングルの法則も、第一幕に登場した銃は第三幕で必ず発射されるというチェーホフの法則も、
無効になりこそしないが、ついに打破され、ほとんどの地域では戦争はかつてないほど稀になった。
古代農耕社会の死因の15%が暴力だったのに対して、20世紀には暴力は死因の5%にすぎない。そして21世紀初頭の今、
全世界で、暴力に起因する死亡の割合は1%にすぎない。
2012年には世界中で5600万人が亡くなったが、そのうち、暴力が原因の死者は62万人。そのうち戦争が12万人、
犯罪の犠牲が50万人。一方、自殺は88万人、糖尿病による死亡は150万人であった。今や砂糖が火薬よりも危険だ。
それ以上に重要なことは、多くの人が戦争は断じて考えられないものと見なすようになったこと。政府や企業や個人が近い将
来について思いを巡らせるときに、史上初めて、戦争は起こりそうな出来事とは考えないことが多くなった。核兵器のおかげ
で、超大国の間の戦争は集団自殺という狂気の行為となり、この地上で屈指の強国は皆、争いの解決策として他の平和的方法
を探すことを強いられた。同時に、世界経済は物を基盤とする経済から知識を基盤とする経済に変わった。過去、富の主な源
泉は、金鉱や麦畑や油田といった有形資産だった。それが今や富の主な源泉は知識となった。油田は戦争で奪取できるが、知
識は戦争では奪えない。よって知識が最も重要な経済的資源となり、戦争で得られるものは減り、今や戦争は物を基盤とする
経済に依存する中東や中央アフリカなどの地域の出来事となった。
この新たな平和はヒッピーの幻想ではなく、権力を追い求める政府も、強欲な企業もこの新たな平和を頼みとしている。
メルセデス・ベンツが東ヨーロッパで販売戦略を練るときには、ドイツがポーランドを征服する可能性は考慮しない。
低賃金のフィリピンの労働者に頼る企業は、来年インドネシアがフィリピンを侵略することなど心配しない。
2010年、肥満で亡くなった人は300万人なのに対して、テロで亡くなった人は7697人であった。アルカイダよりコ
ーラの方が深刻な脅威となったのである。
21世紀の主要目標「不老不死」と「幸福」
不老不死について
人間はすでに手にしたものだけでは満足できない。飢餓と疫病と戦争の脅威が取り除かれた21世紀に、人間は「不死」を目指
して真剣に努力すると思われる。
学校の教師も、議会の政治家も、法廷の弁護士も、舞台の俳優も、第二次大戦後の世界人権宣言も、「生命に対する権利」が
人類にとってもっとも根源的な価値だと言い切っている。死は明らかにこの権利を侵害し、人道に対する犯罪であり、私たち
は総力をあげてそれと戦うべきである。
歴史を通して、宗教とイデオロギーは生命を重要視していなかった。人間が死ぬのは神がそう定めたからであり、宗教は死を
世界には不可欠で好ましい部分と見ていた。死のない世界はすなわち天国も地獄も再生もない世界であり、キリスト教もイス
ラム教もヒンドゥ教もどうなってしまうのか、想像してほしい。
現代人にとって死は、解決するべき技術的な問題だ。人間が死ぬのは神がそう定めたからではなく、何らかの技術的な不具合
のせいである。例えば、心臓の筋肉に酸素が十分に到達しないために、心臓は血液を押し出すのやめる。遺伝子が偶然、変異
を起こし、癌が拡がる。超自然的なところは少しもない。すべて技術的な問題であり、どの技術的問題にも技術的な解決策が
あり、死を克服するためにキリストの再臨を待つ必要はない。
伝統的に死は聖職者や神学者の得意分野だったが、今や技術者が彼らに取って代わりつつあり、癌細胞を化学療法やナノロボ
ットで殺すことができる。抗生物質で肺の病原菌を根絶できる。心臓が血液を押し出さなくなったら、薬や電気ショックで動
きを回復させられるし、それでもダメなら新しい心臓を移植できる。
現時点では、技術的な問題のすべてに解決策があるわけではないが、だからこそ私たちは、癌や病原菌、遺伝学、ナノテクノ
ロジーの研究には多くの時間とお金を注ぎ込んでいるし、一般人さえも、死を技術的問題と考えるのが当たり前になっており、
技術的な解決策が見つかるかもしれないと思っている。
私たちはハリケーンや自動車事故や戦争で人が亡くなったときでも、それは防げたはず、防げなかった原因は技術上の失敗で
あったのだと見なす傾向にあり、政府がとても良い政策を採用していたら、地方自治体がきちんと責務を果たしていたら、軍
司令官がもっと賢明な決定を下していたら、死は避けられただろうと考え、どこかで誰かがしくじったに違いないと考える。
レイ・カーツワイル博士や、老死学者のオーブリー・デ・グレイは2050年には、健全な肉体と豊富な資金があれば、死を
10年単位で先延ばし出来るようになると考えている。人類は20世紀に平均寿命を40年から70年へとほぼ倍増させたの
で、21世紀にはもう一度倍増させて150年にできるはずだ。不死には遠く及ばないが、家族構成や結婚、親子関係などは
もちろん人間社会に大変革をもたらすだろう。
実はホモサピエンスの自然寿命は40歳ではなく70~80歳であった。飢饉や疫病、戦争などでの死を免れることが出来れ
ば70~80歳まで生きられたのだ。実際ガリレオは77歳、ニュートンは84歳、ミケランジェロは88歳まで生きた。
キャリアについても変革がある。10~20代で一つのキャリアを身につけ、新しいことを学びながら残りの人生をその職種
で過ごすのが今日では一般的だが、150年生きるとなるとそうはいかない。これまでよりずっと長いキャリアを生きるだか
ら90歳なっても、自分や生活や働き方を何度となく一新する必要があるだろう。そして人々は65歳で引退もしなければ、
斬新なアイデアや大志を抱いた新世代に道を譲ることもなくなる。
物理学者のマックス・プランクは、科学は葬式のたびに進歩するという有名な言葉を残した。ある世代が死に絶えたときによ
うやく、新しい理論が古い理論を根絶やしにする機会が巡ってくるという意味である。
職場のことを考えると、上司が120歳でヴィクトリア女王の頃の考え方にいまだしがみつき、まだあと20年は上司であり
続けるとしたら、あなたはどう感じるのだろう?
政界ではいっそう悲惨だ。プーチンはあと90年も居座わるが、そもそも2016年には138歳のスターリンがいまだ君臨
し、毛沢東は初老の123歳、エリザベス王女は121歳のジョージ六世から王座を引き継ぐのを手をこまねいて待ち続け、
息子のチャールズには、2076年まで順番が回ってこない。
「幸福」について
非常に生産的であっても不満足なシンガポール人になりたいか。それとも生産性は低いが満ち足りたコスタリカ人になりたい
か。20世紀に国家の成功を評価する基準は一人あたりGDPであった。
人類の課題リストの二つ目の大きなプロジェクトは幸福へのカギを見つけることである。歴史を通じて、無数の思想家や預言
者、一般人が、生命そのものよりもむしろ幸福を至高の善と定義した。
古代ギリシアの哲学者エピクロスは、神々を崇拝するのは時間の無駄であり、死後の存在などもなく、幸福こそが人生の唯一
の目的であると説いた。古代の人のほとんどはエピクロスの考えを退けたが、今日ではこの考え方は当然と考えられている。
人間はあの世の存在を疑っているために、不死だけではなく、現世での幸福を追求するのだ。仮に永遠の命が得られたとして
も、それが永遠に悲惨な状態で生きることであったら意味がない。
実のところ、今日までの医学の進歩は寿命を延ばしたわけではなく、早死にを防いだだけである。よって、医学の最大の功績
は私たちの早死を防ぎ、寿命を目いっぱい使えるようにしてくれたことだ。だから今、たとえ私たちが癌や糖尿病などの主な
死因を克服できたとしても、ほとんどの人は90歳まで生きられるだけであり、150歳にはとうてい届かないし、500歳
まで生きるなど、あり得ない。寿命を延ばすには、人体の最も根本的な構造やプロセスを徹底的に改良し、臓器と組織の再生
法を発見する必要がある。
2100年までですらそれが実現出来るかどうかは分からないので、死との戦いは今後一世紀の間は最重要プロジェクトとな
る。心底、人命を重視する私たちには、死をあっさりと受け容れることなど決して出来ず、死を克服しようと奮闘し、幸福を
不老不死に続く21世紀の第二の目標にするだろう。しかし、もし飢饉と戦争が消え失せ、前例のない平和と繁栄により平均
余命が劇的に延びたとしても、残念ながら、人間は幸せにはなれない。
エピクロスは幸福を至高の善と定義したとき、人は簡単には幸せになれないと気づいていた。物質的な成果だけでは私たちの
満足は長続きしないし、お金や名声や快楽を追い求めても惨めになる。エピクロスは倫理について語っているが、たとえば飲
酒や性欲を抑えることを推奨している。長い目で見れば、深い友情のほうが熱狂的な乱痴気騒ぎよりも大きな満足を与えてく
れるからだ。
私たちは過去数十年に飢餓と疫病と戦争の脅威に対して、前例のない成果をあげてきたにもかかわらず、現代の人々が先祖た
ちよりもずっと満足しているとは断言できない。それどころか、昔のような伝統的な社会に比べて先進諸国のほうが繁栄し、
快適で、安全であるにもかかわらず、自殺率が高いというおかしなことになっている。
今日の平均的なアメリカ人は食料だけでなく、自動車、コンピューター、冷蔵庫、テレビなどのために、石器時代の平均的な
猟採集民の60倍近いエネルギーを使っているが、60倍幸せとは思えない。
私たちの幸福感はガラスの天井に抑えつけられており、どれだけ成果を上げても幸福感を増すことができない。
全ての人に食料が提供され、あらゆる疾病を治し、世界平和を確保したとしても、そのガラスの天井を打ち砕けるとはかぎら
ない。人は現実が自分の期待に添うものであるときに満足する。境遇が改善するにつれ、期待も膨らむので、過去数十年間の
劇的な境遇の向上は、満足感ではなく期待の増大につながってしまった。
我々の快感はたちまち冷め、遅かれ早かれ不快感に変わる。たとえワールドカップファイナルで決勝のゴールを決めたとして
も、その至福が一生は続かない。予想外の昇進による快感があったとしても、それは一時のものであり、繰り返し昇進し続け
なければ同じような快感は続かない。
(話しは、現代、未来に向けて続きますが、長くなるのでこの辺で以下省略)
と思いましたが、近未来の話しの部分もちょっとだけ、
AIを使った情報収集、情報管理により世の中がどう変わるのかが書かれています。
我々は、グーグルに自分のすべての情報開示してきたことで受けられる、自分よりも自分を知るAIの親身なカウンセリング
サービスと引き換えに、各人が自分の意思を決定するという考え方は捨てざるを得なくなる。
自由主義は選挙での投票やスーパーでの買い物、結婚相手探しにおいて、自分自身で決定することを許す。しかし、グーグル
により自分以上に自分を知り、正しい判断を下してくれるシステムが提供されるなら、そのシステムに任さず、自分で判断す
るままにするのは無謀ということになってしまう。
その時、民主的な選挙のような自由主義の観衆は時代遅れになってしまう。なぜなら、グーグルは私の政治的見解さえ、私以
上に的確に言うことが出来るのだ。
自由主義は自分で考えて決定しろと私に指示する。しかし私は前回の選挙以降、自分が感じたことを覚えてはいない。しかも
人間は記憶の奥にある以前に起きた大多数のことは忘れてしまい、極端な出来事や、最近起きたことを過大評価する。4年間
苦情を言ってきた首相が、選挙の前になって減税を行い、見事な選挙活動を行い、しかも選挙の朝に風邪をひいていたら、私
は再び私たち全員の破滅をもたらす人物を政権の座につかせてしまうかもしれない。
もし、自分に代わってグーグルに投票権を与えていたらそのような事態は避けられただろう。
グーグルは過去4年間の私に関する出来事を覚えているし、私が朝刊や晩のニュースを見てどんな反応をしたかも覚えている
し、人は病気になると少し右傾化することも知っていて、私の考えや行動を補正もしてくれる。
したがってグーグルは私(つまりは、生化学的アルゴリズムの集合体)の本当の気持ちと関心に即した投票が出来るのだ。
ただの確率なのでグーグルが正しい判断を下すとは限らないが、正しい判断を繰り返せば人々はグーグルに自分の権限を委譲
してしまうでしょう。誰もがそうするそのような世界では、我々は意思もなく、生命体とすらいえない存在になるのでしょう。
(うーん、実は、ホモ・デウスの後半の要約のメモが見当たらないのですよね。この辺りでご勘弁を)